ログインセシルは雨を避けながら歩いていく。初日に向かった鉄塔よりもさらに奥、北の果てにその場所はあるらしい。
アンリは彼女の後を追いながら目的地について尋ねた。
「どんな場所なの?」
「研究所です」
「研究所?」
アンリには聞き馴染みがない。一生縁のなさそうな場所だ。
「この国の科学技術や最先端の機器、あらゆる英知が結集しております。この国の発展は研究所の発展なくしてありえませんでした。わたくしも問題が起こるとそこへ出向いておりました」
「問題?」
「ええ。おそらく今までこのことを忘れていたのは、わたくしが正常だったからです」
「それって、なんだか今は問題が発生してるみたいに聞こえる」
「ええ。発生しております」
冗談のつもりで言ったのに、セシルから真面目な返事をもらったアンリは当然驚きに足を止めた。
「具合、悪いの?」
「いいえ。ただ、エネルギーをかなり消耗したようです。いわゆるバッテリー切れです」
「バッテリー……」
本当に機械のようだ。アンリは思わずセシルの手を取った。雨で肌寒いとはいえ、やはりセシルの手は血の通った人の温度とは思えない。
これまでのセシルの言動が脳内に浮かんでは消えていく。
記憶はないのに情報は持っている。どこにいても正確に場所を把握できる。食事もとらない。好きなものも嫌いなものも設定されている。
心音が聞こえない。
「それは素敵なお話ですね。なんだか水の精のお話みたい」 王宮へと戻り、早々ミアにバザールでのできごとを話したマリックに、ミアは興味津々といった様子で食いついた。「水の精?」「ええ、水を操る妖精たちのことです。水に命が宿ったもの、と言い換えてもよいかもしれません」「そんなものがいるのか? この世に?」「いるともいないとも言われていますが、いると思ったほうが楽しく生きられます」 ミアは意味ありげな妖しい笑みを浮かべる。まるで世界の秘密をひっそりと共有するような、心を許し合った者同士が内緒話をするような、心をくすぐる笑みだ。 マリックは降参を表すように両手をひらりとあげる。「しかし、水の精など初めて聞いたな」「そうなのですか? おとぎ話に出てきてもよさそうですが」「サラハにも妖精信仰の類がないわけではないが、多くもないからな」 マリックがあまりそうしたものに興味を示してこなかっただけかもしれない。 思えば、おとぎ話や物語に触れて面白いと感じたのはミアの話が初めてだった。 ミアはマリックの話に関心を寄せつつも何を思い出したか「そういえば」と切り出した。「砂漠のスコールもそうした妖精の仕業だと聞いたことがあります」「そうなのか? 初耳だ」 砂漠の民にとってスコールは慣れ親しんだ自然現象だが、そうでない者たちにとっては特別なものに思えるのだろうか。 噂や伝承は事実の中に奇跡や運命、ロマンを見出したものが作り上げるもの。&n
長い夏――乾季が終わり、サラハには雨季が訪れていた。 雨季といっても雨が降り続くわけではない。乾季に比べて明け方もしくは夕暮れ時のスコールが増えるくらいだ。気温もほとんど変わらず、むしろ雨のせいで湿気があるぶん蒸し暑さを感じることも多い。 マリックは群青色の髪から滴る雨粒と肌にべたりとまとわりつくような湿気をまとめて拭い曇天を仰いだ。ミアの待つ王宮に一秒でも早く帰りたい。気持ちとは裏腹に大雨が彼の足を止める。ここ最近はミアの顔すら見れていないのに。周囲の喧騒がマリックの急く心を一層苛立たせる。 彼は今、従者たちとともにバザールに駆け込み、買い物客とともに雨が通り過ぎるのを待っていた。 ここ数週間、マリックはさまざまな仕事に追われていた。まったく政治に参加してこなかったマリックだが、一国を買い取り、ダムの管理について協力を申し出た手前、さすがに何もしないわけにはいかなくなった。自らが撒いた種とはいえこれまで散々遊び呆けてきたマリックにはストレスのたまる日々。 今も蒼鋼の採掘所、すなわち洞窟の視察から帰ってきたところである。人を石へと変えてしまう洞窟は蒼鋼が他の材料にとって代わられているうえ、立ち入る人もいなくなった以上、悲劇を繰り返さぬために埋めてしまったほうがよいという結論になった。そのため、父である国王から直々にマリックが埋め立てにあたっての視察を任されたのである。 ミアと出会ってマリックは変わった。誰が見てもそう口をそろえる。マリックの変化は周囲の人々にも影響を与えた。幼少期からとことん甘かった両親もマリックを本格的に国王として推挙しようと遅すぎる教育に力を入れ始め、あらゆる仕事を叩きこもうとしている。マリックはマリックでなまじ素直に育ってきたものだから、結局両親の言うことには逆らえない。どれほど面倒な仕事だろうとわがままや不満を募らせようとも必死に食らいついて奔走した。 そんなわけで、マリックは一週間近くミアと顔を合わせていない。&n
久方ぶりの休暇を得たマリックはミアに王宮内を案内していた。 セシルとのことを思い返し、ミアをいつまでも部屋に閉じ込めていてはいけないような気がしたのだ。とはいえ街に連れ出して逃げられてもかなわない。悩んだ末、城内であれば問題ないだろうとマリックはミアを部屋から出し、宮殿内を散策させることにしたのである。 果たして、マリックは思わぬ収穫を得た。ミアの反応を通じて、やはりミアは外に出たがっていたらしいと知れたこと。王宮内が広いおかげで、街へ出さずともミアの気が紛れること。ミアの好きなもの――特に、王宮内の書物庫の数々に目を輝かせていた――を知れたこと。何より、ミアが珍しく笑みを絶やさず、美しい紫の瞳に好奇心や興味を宿しはしゃいでいる姿が見れたことはマリックにとって最高の思い出となった。 夕暮れ時、さすがに一日歩きまわって疲れ始めたマリックはここを最後にしようと庭園を訪れた。温室付きの広い中庭だ。開放感があり、たくさんの花々や緑に囲まれていて自然と心が安らぐ場所である。 きっとミアも気に入ってくれるに違いないとマリックは中庭へ足を向ける。 庭園にはちょうど西日が柔らかに差し込んでいた。どこか幻想的でありながら牧歌的な穏やかさを感じる光景にマリックの隣から息を呑むようなかすかな音が聞こえた。 見れば、ミアの横顔には感動がありありと浮かんでいる。「素敵……」 ミアの声は完全に惚けていた。相当お気に召したようだ。「中には休めるところもある。見ていくか?」「はい、ぜひ!」 ミアにしては珍しく食い気味な返事にマリックの胸がキュンと鳴る。普段の聡明で大人びている彼女からは想像もつかない子供っぽさがギャップとなり、親しみと愛おしさを増幅させた。
セシルを連れ帰った時のミアの反応は、マリックの想像以上だった。 マリックは彼女のアメジストの瞳がキラリと光った瞬間をこの先一生忘れないだろう。 涙ぐみ、嬉しそうにセシルの手を握ったミアは「ずっとあなたに会いたかったの」と彼女を歓迎し、セシルを連れ帰ったマリックに対しては一層深い笑みを浮かべてこれまでで最上級の感謝を述べた。「本当に、マリック王子に頼んでよかったです」 ミアは、まさにマリックの予想した通り、セシル自身を研究所から解放してほしかったのだと言った。続けて、マリックに「試すようなことをしてごめんなさい」と心から謝罪した。 ミアの泣きそうな顔を見ているとマリックも彼女を咎める気になどなれず、むしろ自分は信用されていなかったのだなと過去の己を恥じるほどであった。 次いで、自分がセシルを連れ帰らなかったらどうするつもりだったのだろうと考え――、その時こそミアは王宮を去っていたかもしれないと想像して恐ろしくなった。確かめるのが怖くて、マリックはミアに問いかけることを辞める。 それに、気になることは他にもあった。 なぜミアはここまでセシルに執着したのか。 この理由はすぐにわかった。「これをお渡ししたかったのです」 ミアが取り出したのは一枚の写真。とても古いもので色あせてしまっている。 セシルは写真を手にし、にわかに信じられないと口を開けたまま数秒ほどフリーズしていた。思考回路が停止してしまったかのように。 マリックは写真を覗き込む。 写っていたのは今と変わらぬセシルとひとりの男性だった。「これは?」
気づけば口を開いていた。「お前にも待ち人がいると聞いた。想い人を待っている、と」 なぜ自分でもそのような話をしたかはわからない。しかし、セシルの気持ちを知りたい、セシルを理解したいという思いがマリックの口から質問の形になって飛び出た。「辛くはないか?」 セシルを案じる気持ち。それは、今までのマリックにはなかった他人への気遣い。「ずっと、現れない人を待ち続けるというのは辛くないのか?」 マリックだったらきっと心が折れている。現に、先ほどまでミアとの約束を果たせそうにない自分が情けなかった。ミアと一緒にいられなくなってしまうかもしれないという未来を想像して泣いてしまいそうだった。満月を持って帰ることができなかったと告げた際のミアの落胆した顔を思い浮かべるだけで胸が張り裂けそうになった。 ミアが生きていてもそうなのだ。これでミアがいなくなったらと思うと……。 マリックはゾッとしてセシルからもらったばかりの満月のネックレスをぎゅっと握りしめる。 大丈夫だと言い聞かせ、セシルに目をやった。 想像しただけで身震いしているマリックに対し、セシルは穏やかなまなざしでひたすら想い人を待っている。永遠に。もういなくなってしまった人の帰りを待っている。いつか会えると信じて。 マリックには到底真似できない。「わたくしには辛いという感情がわかりません」 セシルは静かに答え「しかし」とマリックを見つめる。 ふたりの間にカランと氷の解ける音が響く。「そのようにおっしゃってくださったのはあなたが初めてです。そして、
あっけなく差し出された満月にマリックのほうが呆然とした。 だって、そんなのはおかしい。満月のネックレスはセシルにとっての命そのものなのではなかったか。それを外すということはすなわち自身の命を絶つことと同義。「お前……、何をして……」「これが欲しいのでしょう? 差し上げます」 先ほどリンゴジュースを差し出した時とまったく同じ動作で、セシルはマリックの前にずいとネックレスを突き出す。 マリックの目の前で満月が揺れる。セシルから離れたからなのか、青い月はだんだんとその色を薄くさせていく。 それがまるで命の終わりのように思えて、マリックはついセシルの手を押し戻した。「やめろ!」 よこせと言ったのは自分なのに。マリックは自分のしたことが恐ろしくなった。 一方のセシルは、よこせと言われたから差し出したのになぜ拒むのかと不思議そうにマリックを見つめている。 マリックはその視線に耐えられず、「……早く、ネックレスをつけ直せ」 とふてぶてしいまでの態度でセシルから顔を背け、祈るように目をきつく閉じた。 彼女がバッテリー切れで倒れるところなど見たくはなかった。 しばらくすると、チャリと金属のぶつかるような音が聞こえ、マリックはそれを合図におそるおそる視線を戻した。 彼女の胸元に青い月が輝いている。「外せと言ったり、つけろと言ったり、あなたは変わった人ですね」 セ







